自宅のリビングには名前のない植物がある。
かなり長い時間、ともに生きてくれている存在である。
通勤前など、触ることで身体の余分な電気を逃がしてもらうイメージを持っている。
そのような働きがなくても、人が頭で考えて作っていない存在がいてくれるのはありがたいことだと感じている。
そんな植物を、父親が一部折ってしまった。
先日思ったことがある。
自分は動物や植物のことをほとんど普段考えていないと。
それならば、せめて自分の部屋に植物を置いたらどうかと。
置かないよりは、きっと、自分の中の植物のイメージは強くなるだろうと。
ならば盆栽がいいかもしれないと、本屋で盆栽の本を見つけて、そんなことを考えていた。
そんな頃に、そのような事が起きた。
もちろん、その植物の一部はまだ生きているはずである。
母親が、父親の飲み終えたウイスキーの瓶を持ってきた。
僕は瓶を何度か水で洗い、水を入れ、その中に入ってもらった。
土がないので、あとどれくらい生きてくれるかはわからない。
このような事がおきたのにも意味があるのだろう。
そう感じた日だった。